オンラインサロンにハマる人がなんとなく気持ち悪いと感じてしまう人のためへの言語化材料『かもめのジョナサン』

本紹介

オンラインサロンが話題になってから数年経ちますが今もなお健在です。
絶対に身近にはなれない著名人と限りなく個人と個人の関係になれることから有意義な場になるんでしょうね。

ただオンラインサロンに気持ち悪さを感じている人はいませんか?
「宗教みたい」「教祖による洗脳じゃないか?」
一部だけとは理解しているでしょうが、そのような人間を生み出している根源を忌避してしまうのもわかります。

今回は『かもめのジョナサン』を寓話として引用しながら、オンラインサロンに気持ち悪さを感じてしまう理由を探っていきます。

気持ち悪さを特定できれば、なんとなく毛嫌いしていた方もうまく利用することができるかもしれません。

『かもめのジョナサン』のあらすじ

ジョナサンは普通のカモメと違って飛ぶことにこだわるカモメ。彼にとって飛ぶことは食べるため移動するための手段ではありません。飛ぶこと自体が歓びだったのです。ついには飛ぶことの真髄にたどり着き、彼は群れのカモメに飛ぶことを知る手助けをしました。カモメの黄金時代がやってきました。しかしジョナサンが姿を消し、彼から直接教えを受けたものをいなくなった後では、ジョナサンの教えを崇拝するカモメばかりになってしまったのでした。

ジョナサンのようになにかを突き詰めた人に対して我々は関心をもち賞賛します。
ただ同じようにあせくせ餌を探すのをきっぱりやめて、飛ぶことの神髄を求めだすことはないでしょう。表面上の真似をして満足するだけです

それこそ最終章のジョナサンを崇めている必要な時しか飛ばないカモメと同じように

  • メッセージを学ぶことに興味をもつカモメ
  • 飛ぶことよりジョナサンの伝説の方に狂気じみた目を向けるカモメ
  • 厄介な飛ぶための努力を怠るようになったカモメ
  • 必要な時しかとばないカモメ

心当たりはないでしょうか?

どうして人はオンラインサロンにハマるのか?

自分で自分に高揚できる、自分で物語を創ることができる人は魅力的です。

ただし多くはいません。多くの人は退屈な日常を魅力的な物語に塗り替えてくれる「なにか」を求め彷徨っているのです。

そこにオンラインサロンが「一緒になにかに取り組んで、よりよい未来へ向かっている」と感じさせて現れると、からっぽだった自分ではなくなり充実感に溢れてしまいます。

確かに楽なんです。他人から熱中できるモチベーションをもらうのは。

ただいつでもモチベーションをもらえると思って依存するのは違います。
そこに恐怖を感じましょう。彼らが去ったとき、自分で高揚できなくなってしまったらどうなるんでしょう?新たな依存先をみつけるのでしょうか

オンラインサロンで得られる人とのつながりもまた充実したものでしょう。
ただしそれは主催者ありきのものです。からっぽの自分を埋めたものがすべて彼によるのであれば、彼が去ったときに残るつながりはあるのでしょうか?

同じ教えを知るもの同士で学び語ることに満足していませんか?
行動のきっかけとして利用して高みに上った人と自分を冷静に比べてみましょう。
頑張ればいつか叶うかもしれませんが、いつの間にか頑張り続けるために依存が必要になっているかもしれません

どうして気持ち悪さを感じるのか

「飛翔の神髄を追い求めることを諦め、表面だけ真似してるだけのカモメ」を見てしまっているからです。

多くのカモメが、大車輪旋回のような難しいことを練習するのはうんざりだと考え、物思いにふけりながら、ふるさとへ帰っていった。「〈神聖な唯一のお方〉は〈紫色の目〉をしておられた————僕の目とは違うし、この世に存在したどんなカモメの目とも違う

かもめのジョナサン

結果を残す人は間違いなくいます。それもまた「気持ち悪さ」に繋がっていくのですが今回は触れません。辿り着けず諦めてしまった人に注目しましょう。

努力し続けるのは大変です。それが成功者と同じ努力をしなければならないなら諦めてしまっても当然とはいえます。
そして諦めてしまった人は「違い」を探します。何が自分にないのかを
それがないからできないだけと納得します。

「彼のようになれない理由が確かに存在するけれど、諦めずいつか彼のようになるために努力を続けている」

こう思いこんで努力するフリをするのです。
ただ意欲の高いコミュニティにフリだけで属し続けるのはつらくないのでしょうか?

オンラインサロンでは方法があります。
教祖の賞賛とその教えを語ることです。

フレッチャー先生、神聖なジョナサン様が飛び上がられるときは、風に向って一歩踏み出されたのでしょうか……それとも二歩だったのでしょうか?」彼がその質問を正すこともできないうちに、別の質問が放たれた。「フレッチャー先生、聖なるジョナサン様の目は灰色でしたか、金色でしたか?」質問をした灰色の目の鳥は、狂おしいまでに唯一の答を求めていた。

かもめのジョナサン

熱狂できる物語を共有できる居心地のいい空間に居続けるために、取り組みやすい真似できる要素を探し求める努力を彼らはするのです。

神髄を追及することもなく、現実も見ることなく、教祖以外のものは何もみえなくなって賞賛と教えを語り続ける人が外部に可視化されてしまうのです。

最後に

オンラインサロンでは個人と個人の直接的な人間関係をむすぶことができるはずです。
直接的な人間関係のもとならメッセージを十分に受け取ることができます。
メッセージの受け手に資質があればですが

行動できる人は少なく、継続して取り組める人はさらに少ない。
行動できず継続できず資質もないが、ただ心地よい居場所にはしがみ続けたい

これが可視化してしまったが故の気持ち悪さだと考えます。

拠り所がなくなったバラバラで孤独な人が行き着くのは魅力的な物語です。
これは過去の歴史にもありました。今もあります。そして当然未来にもあるでしょう。

すべてが悲惨な未来につながるわけではないですが、悲劇の種が蒔かれているのは事実です

心を奪われたときに現状を俯瞰する。そして思考を止めずに試行錯誤する。
過程をすっ飛ばして結果を得られる現代だからこそ地道なことが重要だと考えます。

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