本を読んで書くことを強いられるといえば読書感想文を思い出す人が多いと思います。
読書感想文を書くために本を読んでも書けない。本の内容をもっと理解すれば書けるようになると思って、さらに読み込んでも書くきっかけが掴めない。最終的に要約や抜き出しをして当たり障りない感想や意見を付け足して形式を整える。
こんな記憶ありませんか?
読書感想文に限らず本を読んでも何も語れない。客観的にまとめる要約や当たり障りのないことしか読書に関する文章を書けなくなってしまう。
どうして本を読めば読むほど書きにくくなるのでしょうか?
それは、本の内容を正確に反映させようとして、自分のふと思いついたことや書きたいことを無視してしまうからです。
「学校で学ぶ読解」と「読書感想文」では、自分を語ってもいいかが違うが実質は同じ
まず「学校で学ぶ読解」についてみてみましょう
- 文章を正確に読み解くこと
- 文章読み解くための背景知識
- 漢字や熟語の読み書きや意味を学習する
以上が主に学校で学習することだと思います。
(※実際に「この時の作者の気持ちを答えなさい」と問われたことがないので除外しています)
文章を正確に読み解くには、一文一文に意味があって注意深く読む必要があると学校はいいます。そうすることで正しい解釈ができるようになるのです。
つまり、学校で学ぶのは正解を導ける読解の技術です。主観を排除して客観的に判断するための読解です。
次は読書感想文について見てみましょう。
読書感想文は書き方すら教えてくれないですよね。
【読書感想文の基本の流れ】
「本の紹介」→「本を読んで感じたこと」→「自分の考え」
の流れで書けばいいとされています。
つまり読書感想文では自分を語る必要があります。
しかし、そもそも教師がみる読書感想文では自分の意見を自由に書けるのでしょうか?
実際は教師が求めるもの以外を書けないですよね。教師に怒られない内容を客観的に判断して書かざるを得ない。つまり「正解」を求められるのです。
自分を出しつつ教師がみても問題ないものを書けるほど成熟していない小中学生にとって難易度が高い・・・
だからこそ教師や親に受け入れられる当たり障りのない意見にしがちなのです。
学校が教える主観を排した読解に、他者を意識した意見を無理やりくっつける。
これが読書感想文です。
はじめからお利巧な意見に繋げるように本を読めば綺麗な作文ができるでしょう。
それこそ税金の作文のように。でも楽しくない。
自我を制限する学校教育の監視の下、「自己を表現しろ」と命令される読書感想文。
読書感想文で感受性を育てるといいながら、実質は「学校で学ぶ読解」と同じく「正解」を見出すものなのです。
これでは自由に書けません
ただ学校を卒業して大人になってからは、自由を縛る要素が消え去り、書けるようになった人もいると思います。ですが読書の呪縛にとらわれたままで書くことができない人もいます。
なぜでしょうか?
テキストに自己が飲み込まれる書くことができない
読書の思い込みが自分の関心事を無視してしまうからです。
- 本は最初から最後まで読まなければ語ってはいけない
- 本の内容を理解しなければ語ってはいけない
- 本の内容を都合のいいように解釈してはいけない
以上のように、著者の意見を理解するために全文を読み、著者の伝えたいことをそのまま受け入れることこそが読書だと我々は考えてしまいがち。
多少気になる点があっても本を読むのを止めないことが多いです。
- 答えは文章の中にあるはず
- もし気になるようならオリジナルな意見として今回の読書とは別に考えればいい
- 本について書くのであれば書かれている内容を遵守すべきで、自分の考えを全面的に押し出してはならない
こうして読み進めるうちに気になった点は消えてしまいます。テキストに自分自身が飲み込まれてしまったのです。自分の意見を書くことができなくなります。
本から意識が離れたタイミングを大切にすれば書けるようになる
どうすれば書けるようになるのでしょう?
まず読書の思い込みを捨て去ります。
そして読み方を変えます。
「はじめからお利巧な意見に繋げるように本を読めば綺麗な作文ができるでしょう。」
これは教師に向けた読書感想文の書き方でした。次のように変えてみましょう。
「はじめから自分の意見に繋げるように本を読む」
初めから自分の意見がハッキリしていれば本を読まずとも書けますが、もやもやとした言語化できていない部分は必ずあります。本を読んで気になった箇所は、自分自身の中でまだ十分に言語化できていない部分です
本を読んでいて
- 吸収したいと思った箇所
- 他のことを連想してしまった箇所
- 自分の考えが溢れ出た箇所
このタイミングは大事にしましょう。読むのをやめてその場で思ったことを残しましょう
文章を読んでいて自然と本から意識が離れたタイミングこそ、自分自身の考えを深める入り口なのです。入口から奥へ進めることができれば自分の意見は自然と書けるようになるでしょう。
最後に
物語を社会学や哲学要素の観点から解説する考察サイトがありました。こんな考察をしてみたいと憧れていましたが、どんなに読んでも辿り着けませんでした。また社会学や哲学の知識を身に着けても語れるようにはなりませんでした。
今ならなぜ語れるようになれなかったのかがわかります。
物語を読む際に自分自身を排除してしまっていたからです。書かれているものをそのまま読み解く学校教育で習った読解しかしていなかったのです。
- なにか引っ掛かる要素があれば本を閉じて考えてみる。
- 語るときには全体から語ろうとせずに語りたいと思った箇所だけに注目する。
こうすれば面白い考察ができたような気はします。
学校生活や世間の読書観によって身に着けてしまった思い込みは根深いです。「こうしなければならない」と無意識のうちに制限してしまうと思います。
読書の形式から外れるのは怖いです。ただ自分自身の読書に満足していないなら勇気をもって一歩踏み出してみてはどうでしょうか
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